韓国ソウルにおける近代都市計画公園形成過程に関する研究−1930年京城都市計画から韓国解放後大韓民国都市計画法制定(1962年)までを中心に−

Jazyk: japonština
Rok vydání: 2014
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Popis: 本研究は、日帝期ソウルの都市計画による公園誕生背景から公園活用による変遷過程の検討から始まっている。1920年初頭から注目を集めていた都市公園への関心は、休養や観光、娯楽を主な用途にする憩いの外部空間役割に重点をおきながら、これを基本公園意味にする都市計画公園を模索していた。中でも児童公園への関心というのは特に児童保健を含む教育施設としての機能が強調され、公園計画において規模による公園種類に機能の分化までを総合的に計っていたことが伺える。このような都市公園アイディアが公園計画地の選定など具体案として提案されるのは、1930年の京城都市計画書を通して発表される38個所の公園地によるもので、この計画案は、1927年に朝鮮総督府によって報告された京城府内の南山公園など7個所の既存公園調査結果を土台に作成されていた。本書では、都市計画面積と人口を勘案して空地面積を計算・算出、その結果を基に公園用地の配置が具体的に計られるなど、向後の都市計画公園基準を立てる礎石を用意した公園案であり、後には公園地区と風致地区の分離、そして、市街地計画公園地区及び風致地区の決定へまで結びつくのである。公園内容をみると、公園規模による分類を基本にしながら、自然公園を除いて都市公園/運動公園/近隣公園/児童公園の4種類に構成され、このうち、運動公園と児童公園が明確な公園用途と使用対象が提案されていた。この点に着目し本研究の第1章では、「運動公園」と「児童公園」の公園意味と使用状況を中心に新聞史料を通して検討・考察をしている。「運動公園」の場合、立地選定の第一条件であった「交通便の便利なところに位置すること」で一般認知度の高い場所が選ばれていた。景福宮(朝鮮総督府庁舎)に隣接した社稷壇公園と、南山公園(南山神宮)と隣り合う奨忠壇公園と、京城駅と陸軍指揮本部を三角構図でつないでいる孝昌公園という立地条件は、集合しやすい「広場公園」としての運動公園役割が考慮されていたと伺える。この点は、新しく予定されていた運動公園の立地からも予想でき、郊外の新市街地計画地に関係している模様より、運動公園は、一定単位地区の集合スポット的な存在として考案されていたことが考えられる。実際、奨忠壇公園は1920年開園以後、運動会などの行事が頻繁に行われていたことより、「運動公園」意味である「青少年の体育を主とするもの」を模範的に見せていた一つの実践事例とも言えよう。京城の公園計画は、1930年中盤以降戦争の本格化により、既存公園意味に防空都市化を目指した目的性が加われる。1940年3月に発表されて市街地計画によりそう公園案の特徴として、大・中・小の3段階に分かれる徹底した規模による分類と、土地区画整理事業により産まれる多数の小公園が挙げられる。公園分類は、市街地計画公園案が整っていく中で公園地区と風致地区は分離されたとみられ、風致地区と区別される一般公園機能として「鑑賞という役割よりも「運動」などに使用する機能を重視すべきであること(第2章の3)」が提起されていた。「運動公園」用途は一般公園意味に吸収されるようになり、公園分類は規模に従って単純化した。土地区画整理事業で産まれた小公園は、独立した児童公園用地の確保を可能とし、公園個所は、1930年発表当初の38個所から140個所に3倍以上増加、このうち86個所という6割以上の児童公園数を増やすことができた。児童公園(小公園)は、正に京城市街地計画産物そのものであったといっても過言ではない。都市衛生と緊急用に予め空けておく「計画空地」としての公園意味は、韓国解放、そして、韓国戦争後には「公共」の場へと変遷を続く。計画空地としての公園意味は、戦後最優先課題であった住宅及び教育施設建設という緊急事態に添えることによって新たに公共の意味が加われた。本研究の第3章では、韓国解放後の公園変遷様相、特に京城市街地計画で決定された児童公園用地を中心に調査・検討の結果が述べられている。ソウルの市街地計画公園は、韓国戦争後に住宅及び学校施設、官公署に敷地が与えられていたケースが多く、児童公園敷地も例外ではなかった。洞事務所等に運営を一任していた児童公園敷地は、住民福祉施設へと変貌、場合によっては再度公園に戻るケースもみられるが、今後の公園活用や計画を模索するにはこれからも色々な課題が残っている。
Databáze: OpenAIRE